「即興と設計」公開実験(2/2)

Yuta Uozumi
Apr 29, 2021

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2021年2月28日に行った「即興と設計」に関するSjQの公開実験。前半では、前回述べたように、基本的な手法と即興における映像の可能性をデモした(前編はこちら)。
前編ダイジェスト
後半では、演奏者各自がリモートで接続した状態で、SjQの手法「即興と設計」を実験した。
コロナ禍によって、オンライン環境でのライブや演劇などの試みが増えている。それ以前からいわゆる「インターネットライブ」などは存在していたが、今回の未曾有の状況で、半世紀ぐらい早まった形で社会的な需要が巻き起こっている。
そこでは、5Gなどの低遅延・高品質配信、ARなど仮想と現実の重ね合わせ、複数ユーザーの多点接続などがよく標榜されている。それらとは違う形で、SjQの場合、どのようなオンラインパフォーマンスが可能なのか?それを考えて、実験・実証しようとした。

“motsure” online Performance

オンラインパフォーマンスとして、作品『Torus』の一曲目 “motsure” を初演した。3者をオンラインで繋いでの「即興と設計¹」。

“mosture” from Torus (online performance, Feb 28, 2021)
8分ほどの内容。もったいぶらずに最初に置いておきます。
再生しながら、文章を読み進めてもらえれば、きっと読みやすくなります。

ネットの「遅延」をグルーヴに

原理上、ネットワークでは、音声や映像の遅延を避けることは出来ない。

多重化する遅延

しかも、ネットワーク上での音声の遅延は、何重にも起こる。

  1. サーバーに音声を送る段階
  2. 送られてきた複数の音声を処理する段階
  3. 処理した音をもう一度各参加者に送る段階
  4. ネットワークライブではさらにそれを視聴者に送る段階(3と同時)

ここで問題を複雑にするのは、ネットワーク通話には2つの時間が混在している点である。例えばビデオ会議では、ネットワークを介した音には自分自身の声が含まれていない。これは、自分の発話が遅れて聞こえてくる「エコーバック」が起こると、脳が混乱して発話が難しくなるのを避けるためだ。

ネットワークパフォーマンスも同様で、パフォーマーが聴く音にも2つの時間が混在している。

  1. 一つは、ネットワークを介した「遅延した」時間。この音声には演奏者自身の音は含まれないように処理されている。
  2. もう一つは演奏者自身が発している音のモニターバック。こちらの遅延はほぼゼロである。

パラレルな時間、ひとつの音楽

これらが組み合わさった結果、「演奏者は全員別々の時間軸の音を聴きながら、全体として音楽を成立させなくてはならない」という特殊な状況が起こるしかも、音楽は映像と比較して時間のズレが非常にシビアで、 0.1秒ズレるだけでも十六分音符一つ分。無視できない影響となる。

つまり、遅延を特に回避しようとしないオンラインパフォーマンスでは、演奏者それぞれが別の並行した時間世界に存在し、個別の環境で演奏を続けることになる。この結果はさらに各演奏者に再帰的に影響を与え、各自の時間軸が交差し、非常に複雑な遅延と反応の連鎖が起こる。

実は、作品『Torus』の主要曲ではグルーヴを作るために「演奏者は互いに合わせようとしない」というルールを用いていた。
ネットワークという「合わせたくても合わない」環境を用いれば、そのようなルールがなくても、Torusで試みたグルーヴが立ち上がってくる可能性があった。

「現象する音楽」

ここからが本題となる。
SjQでは、音楽全体の設計者は存在しない。演奏者はルールに基づいた瞬発的な反応を繰り返すのみだ。それにも関わらず、音楽は各リスナーの意識の中に現れる( = 現象する)。
これは、SjQの演奏はランダムに断片化されているようだが、音楽としてパターンを見出しやすい抽象性を帯びるように、演奏法やルールなどで仕向けているためだ。つまり、体験上のロバストネス²を確保しているのだ。

この特徴を利用すれば、ネット上の複雑な遅延を乗り越えて、聴き手の中に音楽/グルーヴが現象するかもしれない。

こうしたロバストネスは、Jazz、民族音楽、映像や絵画、そして演劇や会話…様々なところで散見されるように思う。果たして創造とはどの時点で発生しているのだろうか。
作り手の脳内や、作り手がそれを書いたり演奏したりとアウトプットした時点だけと(本当に)言い切れるだろうか。あるいは、作り手が存在しない偶発的な「何か」に、あなたがひどく共鳴・感動し、そこに芸術や美を感じたとしても、そこには創造はなかったと考えるべきなのだろうか³。

配信ではなく、ネットワークで生まれる音楽

この方法のもう一つのメリットは、その時のネットワーク上の構造と処理のズレでしか存在し得ない音楽が巻き起こる点である。

つまり、リスナーが聴くその音楽は、どこかの場所で行われた演奏の撮影・収音による「配信」ではなく、ネットワーク上で発生している音楽でありグルーヴである。

しかも、前述の通り、その音楽は、演奏している本人達は聴けていない。ネットワークネイティブでかつ、リスナーだけに現象する、まさにオンラインが「現場」となる音楽の試行だった。

公開実験のドキュメンテーションは以上で一旦終わり。

前編はパターンの図鑑、後編はパフォーマンスそのものの感覚質と解説となった。

これらは、「即興的創造」「即興と設計」として、音楽の人はもちろん、音楽以外の「何か」に立ち向かっている人に、いつか何かのリソースになればと思う。

人が洞窟に惹かれるのは、暗闇があるからで、暗闇を見つければそこに入る。そこに理由もなければ効率もない。自信も必要ない。日々歩く道で日常的な跳躍を続けよう。不要だと切り捨てているもの価値に気づける心は気がつくとすぐに乾いてしまう。オンボロでも飛び続ける複葉機のように、乱流の中を即興し続けよう

(1)即興と設計
即興性と設計性は相反せず直交する。完全に並列化し、リアルタイムで進行する即興性と設計性の調和・結びつきが次のキーパラダイムになる(と、筆者は思っている)。詳細はMediumの記事にて。2021年さらに発展・実践可能な概念モデルとして "Creface" を提唱した(SFC Journal 20巻2号 「音楽と科学」特集, 2021)。今後この場でも紹介したい。現時点で論文PDFの公開は解禁となっていない。
(2)ロバストネス
頑健性のこと。外乱や環境の変化などがあっても、システムが致命的な破綻をきたさずに駆動を続けられること(参考:Wikipedia)。SjQのようにルールベースで即興をする際、期待通りに相手が動いてくれないなど、予測不能な事態が常に発生する。それでも、パフォーマンスが成立するように工夫を続けてきたことで今のスタイルになっている。つまり表現上の「遊び」の可動部分が大きいため、ネットワーク上の遅延や、環世界的に各演奏者が違うものを知覚している状況でもパフォーマンスが成立可能性が全然あるなあ、というか、全然できそうだなという感触があったのでやってみたのが今回だった。
(3)現象する音楽
音楽の現象性については、stand.fm での佐々木敦さんとの対話がとてもスリリング。上述の "Creface"の論文を読んでいただいた佐々木さんと演奏・作曲者とリスナーの創造における依存関係や共犯関係について、大友良英さんのカソードや自動演奏によって音楽構造と身体の制約を超越したコンロン・ナンカローなどを引用しつつ展開

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Yuta Uozumi
Yuta Uozumi

Written by Yuta Uozumi

電子音楽家、メディア芸術家。バルセロナ、ベルファスト、コペンハーゲンなど、国際的な公演を行う。2013年、「SjQ++」としてアルス・エレクトロニカ Award of Distinction受賞。慶應SFCにて特任講師、東京の制作会社にてシニアプランナー兼務。『産・学・芸』境界民。

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