「即興と設計」公開実験(1/2)
2021年2月28日、京都「soto」にてオンライン公開実験を行った。
ゲストスピーカーには、SjQと長く繋がりがある映像作家の林勇気さんが登壇。ゆるりとしかし本質的な対話が実現した。
前半はSjQの即興技法の解説とデモパフォーマンス。
さらに、映像を組み合わせて起こる変化を実証した。映像は視聴者の手元のスマートフォンに表示され、パフォーマーの音に反応し、その映像の変化が演奏家への指示となり、音楽が生まれていく。配信される演奏と、視聴者の手元のスマートフォンのCGとサウンドが、視聴者のいる空間でミックスされ、発現する手法の実験。
最後は、演奏者が別々の場所に散らばり、映像と音をオンラインで繋いでのインタープレイ。タイムラグのため演奏者が誰一人も「全体の演奏」を聴けない状態で、音楽が現象するかの実証実験。今回は、前後編に分け、それらの内容をドキュメンテーションしようと思う。
誰か一人でも、いつかこれが何かの創造の資源になることを願いつつ。
そのため、記述はあえて砕かずに文語に寄せて記述した。全部読まれなくても、即興の次の模索の一例が、この場でいつでも参照可能なことを、どこかで思い出してもらえれば、目論見は成功だと思う。
即興を点描化する
最初にSjQが行う即興の基本原理を紹介する。
一般的な即興は、ある程度音楽的な型(リズムやコードの進行、時にフレーズ)が決まっており、それを 変奏 (ad lib) していくことで演奏を展開する。この源泉にあるのは、楽譜的なモデルだ。各楽器が連続した音の列を持っており、それが並列して同時進行する。声部やパートと呼ばれ、楽譜も同様な構造を持つ。録音の「トラック」という考え方もここに基づいている。
次の動画は、この基本的なスタイルを(少し極端に)実演したものだ。演奏者それぞれの音の並びが層を成す。この手法では、各演奏者が事前に持っている基本的なパターンを変奏していく。
各演奏者によるパターンの「層」が重なっていく。必然的に各楽器の音が重なっていくので時間経過に伴って一音一音の重みは必然的に低下していく。このため音量を上げる、音の重なりや密度を上げることで展開やクライマックスを生み出すことになる。
一方、SjQでは、このような音による「層」やトラックという並列的な概念をできるだけ避ける。
各音はできるだけ短く演奏する。理念的にはインパルス(impulse)と呼ばれる、無限に短い音を目指す。インパルスは理論的には全く同時に演奏されない限り重ならない。つまり、アンサンブルは「モノフォニック」になり、各楽器の音は映像のようにカットイン・カットアウトされ、連なりとなるが重なる事はない。
次の動画はその演奏例。「層」構造を避けるので、演奏者は互いに先の音に対し、どういった「間」と「音高」で次に自分の音を置くか、毎音対峙することになる。つまり、常に呼応関係が生まれる。これは、音を使ったキャッチボールのような状態を生む。インパルスを並べていくため、演奏には常に「間」が残され、緊張感やズレ感が生まれる。「層」による並列から「点」が線で繋がっていく垂直的な構造へ。点描的に(あるいは生成的モノフォニーとして)、視聴者の中に音楽的な「像」が立ち上がる。
即興における映像の可能性
即興において、映像を「演奏を生起する環境あるいはルール」として用いることで、VJのような演出的要素を遥かに超える意義、意味を持たせることができる。
音楽の設計図である楽譜は楽曲の構造を記述した「静的」な存在である。一方で即興はその瞬間や文脈によって「動的」に構造が決まっていく。このため、即興における楽譜は、概念的には瞬間瞬間で変化し、その時間になるまで先を完全に見通せない存在、つまりアニメーションになるはずである。アニメーション化した楽譜には、紹介しているような、様々な手法を内包可能であり、「即興と設計」を体現する。
もっともシンプルな例「キャッチボール」
前出の音が重ならない、インパルスを用いたモノフォニーな演奏手法を視覚化するとキャッチボールのような映像ルールになる。誰かが演奏すると、ボールが誰かに飛んでいく。ボールが飛来した演奏者は任意の「間」を開けて演奏する。するとボールが誰かに飛んでいく。これが繰り返されていく。
ボールが一個の場合、同時に音を出せるパフォーマーは一名となり、アンサンブルはモノフォニックとなる。
ステージ上のパフォーマーの並びはそのまま、楽器の音が並べられていくパターンを決める。例えば、演奏者が3人いる場合、左右のパフォーマーどちらからからボールが飛ぶ場合、必ず真ん中にいるパフォーマーを経由することになる。つまり、真ん中の楽器は「ハブ」となり、その楽器の音が必ず他の楽器の間に挟まれるシーケンスパターンを生み出す。
連鎖:ポジティブ/ネガティブなフィードバック
パフォーマーの演奏が他のパフォーマーに影響する時、つまりフィードバックされる時、きっかけとなった状態がさらに促進されるように作用する場合を「ポジティブフィードバック」、抑制する場合を「ネガティブフィードバック」と呼ぶ。
誰かのポジティブなフィードバックが、誰かにとってネガティブなフィードバックとなるように設定すると、誰かの行為によって負の影響を受ける別の誰かが、それを補正しようとする。その行動がさらに別の誰かにとって負の影響になる場合、負の影響とそれに対応する補正行動が伝播していく。
このような関係を演奏者に概念的なルールとして与えるのは、かなり複雑で実演は容易ではない。しかし、映像を介すると直感的になる。次の動画はそのシンプルな例である。演奏者一人一人は、シーソー型のスイッチのように表現されていて、音を出す度にシーソーのように左右の上下が切り替わる事で、スイッチの「極性」が切り替わる。これを使って、各演奏者は自分の右隣の人に接続するように、音を演奏してスイッチを切り替えていく。しかし、シーソーが動くとそのスイッチの左側は逆方向に動いてしまう。この結果、左隣の演奏者は、接続が切れる。接続が切れた演奏者はこれに対処して演奏を行う。すると全く同じ要領で、その演奏者のさらに左側の演奏者との接続が切れ、さらに演奏を引き起こす。映像では左右のスイッチがループしており、これが永遠と繰り返される。
このルールだと、単純に音が順番に演奏されていくはずだが、映像を見るとわかるように、実際に巻き起こる構造はもう少し複雑だ。人間には解釈の速度や誤判断などがあり、それが音楽形成のゆりかごとなる。高速道路の渋滞や市場価格の上下などが必ずしも合理的でないパターンを生み出すのと同じ理由である。
こういったポジティブ・ネガティブなフィードバックは、サイバネティックス(通信工学と制御工学の融合分野)の基礎的な概念である。しかし即興の設計において、大きく異なるのは、設計の趣旨は制御ではなく制御不能性である。つまり、あえて制御しようとしても仕切れないようなルールや条件付けをする事で、システム(=アンサンブル)の挙動を振動させたり、時に極端な状態に持っていく。つまり、そもそも解こうとしても解けないゲームを作る、=「不可能性の設計」が即興の設計の本質部分である。
即興のスティグマジーとしての「映像」
やってみると分かるが、人間が瞬間的に判断できるルールは、2つか3つが限界である。それ以上は相当な修練が必要になってしまう。ここに状態の変化やその影響が加わると、ルールの解釈や取るべき行動の組み合わせは、爆発的に増える。これを頭の中の理解と記憶だけで解決するのは困難だ。
しかし、こういったルールや状態変化を映像に翻訳することで、大幅に負荷を軽減することができる。次の動画はそのシンプルな事例だ。ピアノが演奏すると、ボールは下方に、ベースが演奏するとボールは上方に向かう。音で綱引きをするようなイメージだが、一つ違うのは両演奏者は力をバランスさせて、ボールをちょうど画面中央に位置させるように指示されている。
逆にギター奏者は、ボールが真ん中に来ると、演奏をしてボールを上方か下方どちらかに動かすように指示される。これは外乱として機能する。この結果、ボールは上下動を繰り返し、補正と外乱が連鎖することで演奏が展開していく。
この手法には、楽譜のような音楽的な構造の具体的な記述は一切存在しない。しかし、結果的に即興演奏が生まれ、展開する。映像はボールの位置を記憶し、また演奏者の次の行動のトリガーとなる。演奏者3人は、映像から受ける自分の演奏への影響が異なる。つまり、映像の解釈と行動のセットが全く異なり、ボールの位置という単純な映像ルールで、三者の複雑な関係と行動の変化が生まれていく。ボールが自分から遠のくほど、演奏の頻度は上昇し、またボールが近づけばその逆が起こる。状態は常に変化し、ボールは上下に変動し続ける。
このように、知識や行動の調整が、行動する主体( agent )だけではなく、環境側にも埋め込まれている状況を「スティグマジー」と呼ぶ。この場合、映像は即興する演奏者にとって仮想の「環境」のように機能し、誰かの行動が環境の変化として記憶・蓄積され、かつそれが他の誰かの行動の誘引要素となる。その結果、パターンや適応が生まれる。これは、全体として中心のない一つの知性を形成している。演奏者は複雑な行動や関係、過去の蓄積などを記憶したり把握する必要はない。単純にボールを中央に寄せよう(あるいは離そう)と振る舞うだけである。しかし、結果的にピアノとベースの音の疎密の変動を引き起こしながら、総体的にはバランスするようなシーケンスが生まれる。その中、ギターの音は間欠的にアクセントを加えるような配置になる。
イメージする
最後の映像ルールは、もっとも抽象的なものである。
演奏者が音を出す度にランダムな図形が表示される。この図形は各演奏者を表現した3色の点(それぞれの色はピアノ、ギター、ベースの奏者を表す)がランダムな場所に配置されただけの単純なものである。
各演奏者は、この図形を「自由に解釈」し、次の音を出す。
このルールにも「不可能性」が潜んでいる。3分の2の確率で、自分が図形を解釈した音を出す前に、別の奏者が出した音で映像が切り替わってしまう(ただし、素早く図形に対し音を出すようにすることで、自分が音が出せるようになる確率は上がる)。ここで起こるのは、他人によって映像が切り替わったタイミングに紛れて、自分の解釈した音を出してしまうという行動だ。映像が切り替わった瞬間、それを見て解釈するには、時間がかかる。この認知上の僅かなタイムラグ内に自分の音を出してしまえば、ルール上の大きな「違反」をせずに音を出すことができる。誰かが音を出すと、それに紐づいて他の演奏者も音を出し、連続的に映像が切り替わる。その後、図形解釈の僅かな間を置いて、再び三人のうち誰かが解釈した音を出す(それが誰かは早押しクイズのように早い者勝ちになる)。この繰り返しで、解釈の間と誰かの音に触発された連続的な音の「疎密」が起こる。かつ、ルール上で「自由な解釈」が認められているので、同じ図形でも各演奏者の発する音や、文脈の理解はどんどん異なっていく。
ここで起こっているのは、「ルールで記述されたもの以上」の創発である。認知上のタイムラグ、演奏者の心理や解釈、瞬間的に反応しようとするが仕切れない身体、などの要素がこの単純なルールに絡み合う。
ここに即興や創造の本質がある。人は脳内でのみ思考し、創造し、それを身体で表現するのではない。概念ルール、環境や身体、不可能性、空間や物理法則などが絡み合い、生まれ出たものが「創造」として受け手の中に「現象」するのだ。こういった人間の脳以外の創造の諸要素が構成する概念上の平面を筆者は “Creface”と呼んでいる。即興時のこういった暗黙の要素を周縁要素ではなく根幹と捉え、能動的にハックしていこうという行為こそが「即興と設計」である。
前編はここまで。
後編は、演奏者が3つの地点に移動してネットワークで音声接続し、SjQの手法で即興的な創造が可能かを実証する。---
SjQ 3RD ALBUM "Torus" from Leftbrain , Kyoto
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