『即興の設計』
4 min readSep 19, 2018
- 僕が追い求めていることは一言で表すと『即興の設計』である。即興 (Improvisation)は、音楽や演劇、絵画など表現における様々な分野に存在する概念だ。特に音楽においては、楽譜なしに演奏した音が空間に響き、それが次の演奏を規定するという再帰的なプロセスが発生する。アンサンブルの場合は互いの出力に対する類推と呼応というコミュニケーションが発生し、その中で時系列と共に演奏全体の展開や全貌が立ち現れてくる。ここでは、試行としての音は、即時に現場へのアウトプットであり、それは同時に次の音の選択肢の設計ともなる。
- そこで巻き起こる変遷そのものが構造であり、価値となる。即興では設計->テストの反復といったシークエンスは存在せず、すべてが同時多発的に起こり、還流し、入力と出力と、誤解による創発、重み付けの変更などが同時に渦巻いていく。これは自然の中に見られる様々な創発的な構造化のプロセスと同様である。僕は即興とは、究極のプロトタイピングであり、現在のAjailやファブリケーションなど「設計->プロトタイプ->試行」の反復プロセスが究極に高速化され、ハイパースレッドのように同時化される未来、そのプロセスは即興のアナロジーによって理解され得るのではないかと考える。
- 即興とは、設計や広義のデザイン、そして演奏する身体やコミュニケーションなどを包含した一つのエクストリームなモデルであり、そこで得られる知見は無数の領域への示唆を含む。僕は、このために人工生命研究に用いられる構成論的アプローチを用いて、その探求を行ってきた。構成論的アプローチとは理解しにくい対象を、実際にそれを作って動かそうとすることで理解しようとする手法である。即興では同時かつ非同期に異なる事象が絡まり、発生する動きとそのパターンが構造となる。その複雑さから言語や数学で捉えたり記述することが難しい。そもそも音そのものが現象(コト)でありモノではない。これらの点が生命性とのアナロジーとなっている。
- そのため、これまで、様々な「即興するシステム」を構築し、それを実際の現場に投入する中で、理解を進めてきた。
即興は、自らの即興について語ったり、顧みたりするのを避けるスタンスをとることができる。これは、無意識から沸き上がる、シュルレアリスムでいうところの「自動記述」を重要視し、意識上に自らの行為を反芻することを忌避するためである。この種のアプローチは、即興における神秘性や、即興演奏者=能力者といったイメージにも繋がっている。 - それでは、即興とはアンコントローラブルで予測不能な、設計やデザインとは無縁のランダムボックスなのだろうか。この点は明確に否定できる。現在、群知能、身体性認知科学やSwarm robotics, マルチエージェントシステム、ユクスキュルの環世界など複数の視点が、個人の領域を越えた、アンサンブル的な創造と設計の可能性を示唆している。
- 即興には少なくとも次の4点に設計可能性が存在する。
(1) Performer(構成要素)間の相関のルール、あるいはそのルールそのもののアップデートのルール
(2) 出力されるものの素材(音色)
(3) 即興を行う環境・空間的配置
(4) 道具・インターフェイス(楽器など) - 僕はこれまでの試みの中で、この4つにアプローチすることで、即興を拡張(Augmenteed Improvisaion)または即興で問題解決(Algorithmic Improvisation)することを試みてきた。
ex. SjQ++(2013) , gismo(2005), bd (2007), auLego (2009), existences (2014) - そこには、うまくいったものもあれば、課題を残すものも存在する。しかし、これらの試行は音楽以外の領域においても示唆を含む。「コト」が巻き起こる設計、シビアな一回性(手戻りが効かない状況)への対応、創発的なシステムの理解や設計、そして、それらに相関するあらゆる分野など。
加えて、即興やそのデザイン、そのための構成論的なアプローチといったテーマは、音楽や映像などの表現領域それ自体にも、メタデザイン、身体性認知科学、群知能などとネットワーキングしつつ、フロンティアとして横たわっている。
最後に、即興とは本当に ”Improvisation” と翻訳されるべきなのだろうか?Im+Prov = 「前を見ない」という英単語の語源に思いを巡らせた際、浮かぶのは日本語の『即興』には「 その場で興す = 創発していく」というもっと積極的なまなざしが感じられる。「即興の設計」の視座もここにあって、予測不可能でありながらその変化や方向を可触化していく。即興は “Sokkyo” であると考えられる。